戦国武将の朝倉義景はどんな評価をされているのか?

朝倉義景・武将 世間の話題・雑記

新型コロナウイルスの影響で、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の撮影が中断されています。

そのため、今後の放映もいったん休止されることが、NHKから発表されています。残念ではありますが、しばらく我慢するしかありません。

【大河ドラマ「麒麟がくる」放送一時休止のお知らせ】
  6月7日(日)<第21回>の放送をもって、一時休止

それはさておき、今回はタイトルの件を確認してみたいと思います。

斎藤義龍によって美濃を追われた明智光秀は、越前の国の朝倉義景を頼ることになります。

越前の国の朝倉家、そして朝倉義景とはどのような人物なのでしょうか?

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朝倉家とは

越前朝倉家は、但馬国朝倉氏の流れから越前に移っていった家系です。

但馬の国とは、今の兵庫県北部にあたります。
越前の国というのは、現在の福井県越前市や福井市などを含む地域です。


越前朝倉家は、朝倉義景(11代当主)の時代には守護職を務めていましたが、その前は守護代というお役目でした。

越前の国はもともと、有力守護大名だった斯波氏(しばし)が治めていた国です。

朝倉家第7代当主の朝倉孝景(1428~1481)は、越前を舞台として勃発した争いで主導権を握り、その後、斯波氏に代わり越前守護に任じられました。

朝倉義景の評価

朝倉義景は、1533年に生まれました。 朝倉家第11代の当主です。

父である朝倉孝景が亡くなったのが1548年で、朝倉義景は16歳で家督を相続しています。その時の室町幕府は、第13代足利義輝将軍の時代でした。

明智光秀が朝倉義景をたよって越前の国に辿りついたのは、1556年の長良川の戦い(斎藤義龍VS斎藤道三)の後です。

それからおよそ10年間、明智光秀は朝倉義景に仕えたとされています。


朝倉義景は、隣接する美濃やその隣の尾張を支配下に治める織田信長と、度々争うことになります。

織田信長は1567年、稲葉山城の戦いで斎藤家をうち、美濃を支配下に治めました。

その後、朝倉義景は、近江の国(現在の滋賀県)の浅井長政と組んで、1570年に姉川の戦いで、織田・徳川の連合軍と一戦交えます。


敗れはしたものの、その後、甲斐の武田信玄が打倒織田信長に立ち上がり、一進一退の情勢となりますが、進軍中の1573年、武田信玄の持病が悪化し、亡くなってしまいます。

武田軍が甲斐に撤退してしまったため、朝倉義景は、最後に織田信長と一乗谷城の戦いに臨むことになります。

そして1573年、戦に敗れ、賢松寺に逃れていた朝倉義景は、自刃を遂げます。
享年41歳でした。


朝倉義景については時代劇でも、弱腰で優柔不断、決断力に欠けるというような描かれ方をされます。

それは、姉川の戦いで自らが大将として出陣しなかった点や、武田信玄が甲斐から進軍してきた際に出陣を求められても応じなかった点などを指しています。

織田信長との最後の戦いにおいては、呆れた家臣たちの一部が、朝倉義景の出陣の求めに応じませんでした。


今回のNHK大河ドラマでは、朝倉義景役をユースケ・サンタマリアが演じます。

配役的には、ユースケ・サンタマリアがオロオロした様を演じる朝倉義景が、何となく目に浮かびます。

ただし、近頃発見された書状から、再評価される動きもあるということです。

【日本経済新聞 2017.5.1】
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館は1日までに、織田信長に敵対した越前(福井県)の戦国武将、朝倉義景(1533~1573年)が、朝倉氏滅亡の約5カ月前に発した書状が見つかったと発表した。資料館は「弱腰とみられていた義景が出兵の機会を慎重にうかがっていたことが分かる貴重な資料だ」としている。

日本経済新聞

考えてみれば明智光秀にしても、ちょっと前であれば、大河ドラマの主人公になるような人物とは、誰も思わなかったでしょう。

歴史家や郷土史家の地道な努力によって、歴史上の人物評価が変わる可能性が、まったくないとはいえません。


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