メガネの似合う女性の政治家を上げろと言われたら、たぶん結構な割合で『稲田朋美議員』の名前が上がるのではないでしょうか。
稲田朋美議員の様子を観察してみると、結構な数のメガネを所有していることが見て取れます。
稲田朋美議員にはメガネに対する結構なこだわりが感じられるので、メガネブランドも特定の物を使っている可能性があります。
稲田朋美のメガネ姿
稲田朋美議員はメガネをTPOで使い分けている様子なので、どれくらいの数のメガネを持っているのでしょうか?
答えは、18本です。(2015年11月の記事より)
どちらかというと凹凸の少ない日本的な顔立ちの稲田さんは、結構メガネがお似合いです。
前の記事で、福井県への郷土愛から宣伝も兼ねて網タイツを履いている稲田さんを紹介しました。
実は網タイツ同様、あのメガネも福井県の産業をアピールするためにかけているのです。
いわゆる伊達メガネです。
日本・地域文化産業の発信
稲田さん自身、視力はもともと良いのです。もちろん年齢的なところで、書籍や資料などを見るときには老眼鏡は使用しています。
議員になってすぐに眼鏡をかけ始めたかというとそうではなくて、きっかけはクールジャパン戦略担当大臣(兼務)になったことでした。
クールジャパン戦略担当大臣とは、日本の文化・産業の世界進出促進や国内外への発信などの政策を企画立案及び推進する大臣です。
稲田朋美議員は2012年12月、第二次安倍内閣の時に任命されました。
日本の文化・産業を発信する前に、まず地元である福井の産業をアピールしよう。そう考えた稲田朋美議員は、福井ブランドを自らが身につけるという形でアピールすることから始めたわけです。
鯖江のメガネフレーム
福井県鯖江市のメガネフレーム作りの歴史は、1905年までさかのぼります。元々、何の産業もない貧しかったこの地域では、冬の季節は出稼ぎが中心でした。
現状を何とか変えたいと思っていた時の指導者(村会議員)増永五左衛門が、ふとしたきっかけで眼鏡枠製造の情報得るなかで、すぐに行動に出ます。
更なる情報収集後、確信を持った増永五左衛門は当時メガネフレーム作りが盛んだった大阪や東京から職人を招き入れ、地元住民に一から学ばせることから始めました。
やがて地元住民が職人として育ち分業独立していき、年月を経て一大産地が福井の地に形成されていきました。
110年以上経った今、鯖江のメガネフレーム生産量は日本全体の90%をしめる産業にまで発展しています。
先人への感謝を未来へ
考えてみれば1905年当時、今ほどメガネの需要が広がることを予想することは、なかなか難しかったでしょうから、増永五左衛門には相当な先見の明があったといえます。
先人の知恵、行動、苦労、様々なものが積み重なって、現代の私達の生活が成り立っていることを、こんな話からも感じ取ることができます。
稲田朋美議員も先人への感謝の思いを感じながら、政治家としての責任を果たしていこうとされているのでしょう。
最後、防衛大臣に就任後インタビューに応えた稲田朋美議員の言葉を紹介して、話を締めます。
「私の政治信条は『伝統と創造』です。これはまさにファッションの世界にも当てはまる基本姿勢ではないでしょうか。
特に、私が服を選ぶに当たっては、応援の意味も込めて日本のファッションの今後を担いうる若手・中堅のデザイナーの方々の服を着用するようにしています」 <Fashionsnap.com引用>
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