一時期は初の女性首相候補として名前があげられ、保守政治家として期待された国会議員がいます。
稲田朋美衆議院議員です。
1959年2月生まれの稲田朋美議員は現在65才、若い頃はどんな人生を歩んできたのでしょうか。
福井1区選出で当選回数6回の稲田朋美議員の若い頃や前職について、更に夫の存在について確認してみましょう。(議員になる前でも名称は稲田朋美議員で統一します)
稲田朋美議員の前職は弁護士
2005年に衆議院議員に出馬する前、稲田朋美議員は弁護士を務めていました。
その当時関わっていた弁護案件は、第二次世界大戦中に中国で『百人斬り競争』をしたとして処刑された、軍人の親族が起こしていた名誉毀損の裁判でした。
この裁判の一審判決の結果待ちの時期に、衆議院議員の出馬依頼があったのです。
きっかけは、稲田朋美議員が自民党本部で講演する機会があった際、安倍晋三幹事長代理(当時)の目にとまったことでした。
その時の講演は、「百人斬り競争」はでっち上げであるという内容です。
安倍幹事長代理からの命をうけた山谷えり子参議院議員は、以前から懇意にしていた稲田朋美議員に安倍幹事長代理からの出馬依頼を伝えます。
8月15日の終戦記念日、場所は靖国神社でした。
まさに英霊の後押しがあったと感じざるをえない出来事です。
稲田朋美議員は、夫をはじめ周りの人と相談・調整の後、17日の夜に出馬の決断することになります。
更に若い頃は?
このような戦争に関する裁判にかかわる前、稲田朋美議員は、いたって普通の人生を過ごしてきたようです。
早稲田大学を卒業後の翌年、司法試験に合格した稲田朋美議員(旧姓:椿原)は司法修習生をへて、1985年に弁護士登録をおこないました。
4年後の1989年に結婚し、その後二人の子供(一男一女)を授かり育児に専念します。
今ほど、男女共同参画やワーク・ライフ・バランスという言葉や考え方が一般的ではない時代ですので、女性としては自然な流れの選択だったのでしょう。
若い頃の写真?
ネット上では、「稲田さんの若い時の写真ではないか?」と出回っている写真があります。
こちらです。
何となく似ているような気がしないでもないですが、メイクや服装からいってこの写真は世代がまったく違います。
この写真を普通の感覚で見れば、「ちょっと時代が違う…」と感じるでしょう。
稲田朋美議員が20歳前後の頃は、今から45年以上前のことなのですから。
この写真の人は、『モーニング娘。』の佐藤優樹さんです。
たぶん、最初にこの画像を『稲田朋美の若い頃』とふざけ半分で投稿した人がいて、誰も信じていないけれども拡散されていったいうことではないでしょうか。
結婚後の転機
話を結婚してからのことに戻しましょう。
wikipediaによれば、夫である稲田龍示氏が、『産経新聞』と雑誌の『正論』を購読していたので、稲田朋美議員がその影響を受けるようになり、歴史問題や中国・韓国との関係について考えるようになったといいます。
それを考えると、稲田朋美氏にとって稲田龍示氏との結婚が、とてつもない大きなターニングポイントになったといえます。
この出会い、意識変革があったればこそ、政治家への第一歩が踏み出されたわけです。
夫・稲田龍示氏の支え
先ほど稲田龍二氏との結婚が、稲田議員にとって人生のターニングポイントになったと書きましたので、ここからご主人のことに触れてみます。
結婚している女性が活躍している背後には、その活動を理解し、それを支える夫の存在があるといって間違いないでしょう。
表舞台に出る出ないにかかわらず、女性が輝いていないのは、そのパートナーである男性の責任ですね。自戒も含めて。
稲田龍示氏は、稲田朋美議員と同じく早稲田大学出身で弁護士です。
大学が同じで司法修習生の同期ということから知り合った二人は、稲田朋美議員が30歳になる手前で結婚しました。
二人の子宝に恵まれ、主婦業が中心だった生活に変化が訪れたのは、第二次世界大戦関連の裁判に関わるようになってからです。
裁判や講演などで忙しく動き回るようになる妻を、稲田龍示氏は子供の保育所への送り迎えや家事・洗濯をして支えました。
出馬への後押し
その後、山谷えり子議員を通じて安倍幹事長代理からの出馬依頼を受けた稲田朋美氏は、当然のことながら夫へ相談します。
8月15日に依頼され、17日の夜に決断したということですから、遅くとも15日の夜には夫に話しをしたはずです。
その時、稲田龍示氏は
「君が法廷を通じてこの国を良くしたい、日本の名誉を回復したいとやってきたことは、自民党の衆議院議員になるのが一番の近道だと思うから、挑戦した方がいい。」
と言って、稲田議員の背中を押しました。
稲田朋美議員の父親は、中学生の子供がいることや小泉首相(当時)がすすめている構造改革に反対の立場から、猛反対でした。
もし夫である稲田龍示氏も反対していたら、国会議員稲田朋美は誕生していなかったかもしれません。
ちなみに稲田議員の父親は、椿原泰夫(つばきはら やすお)氏で、現役の頃は高校の校長を務め、退職後も地元で教育委員長をしていました。
一貫して教育畑を歩んでこられ、2016年10月8日、84歳で亡くなられています。
稲田夫婦船
稲田朋美議員が夫の後押しを受けて衆議院議員になって、20年近くが経ちました。
上の写真は、2007年6月の「『百人斬り裁判から南京へ』出版を祝う会」で挨拶する稲田朋美議員と、少し心配そうに傍らで見つめる稲田龍示氏です。
稲田龍示氏は日頃から、「(政治家の)女性保守の論客が絶対必要」、「君(朋美)は政治家に向いている」と言っています。
安倍元首相が暗殺された時を前後して「稲田朋美は本当に保守なのか」という議論もありますが、“保守” の定義が曖昧な状態で論争しても話は噛み合わないでしょう。
稲田龍示氏が、現在の稲田朋美議員の政治スタンスをどう思っているのか、気になるところです。
最後に、稲田議員を支える稲田龍示氏が所属している弁護士法人 光明会HPの挨拶文を紹介します。
「当事務所は、法人化はしていますが、昔気質の法律事務所です。正しいことが通るまっとうな社会の実現を目指しています。卑怯を憎み、「法は力(物理的ないし資本的)ではなく正義である」という信念のもとに、法の抜け道を探すのではなく、道義に照らして正しい立ち居振舞い、誇れる解決を志向します」
夫の支えに感謝しつつ信念を持って国会議員になった妻と、正義を貫くことを誇りとして弁護士業を営みながら妻を支える夫、個人的に見習いたい夫婦関係です。
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